岐阜地方裁判所高山支部 昭和55年(ワ)3号 判決 1985年1月22日
原告 森下春雄
右原告訴訟代理人弁護士 福永滋
松川正紀
右訴訟復代理人弁護士 高橋美博
中根克弘
被告 小坂昭久
<ほか一四名>
右被告ら一五名訴訟代理人弁護士 片山主水
主文
第一 被告小坂昭久、同高島外成、同梨谷清治、同森下玉造、同山越初五郎、同坂次政芳は原告に対し、真正登記名義の回復を原因として、別紙物件目録(一)ないし(一〇)記載の土地につき、被告小坂昭久、同高島外成、同梨谷清治、同山越初五郎はその持分七〇〇分の五宛の、被告森下玉造はその持分七〇〇分の三〇の、被告坂次政芳はその持分七〇〇分の一〇の各共有持分移転登記手続をせよ。
第二 被告石田都代志は同目録(一一)ないし(一四)記載の土地につき、被告上田加等は同目録(一五)記載の土地につき、被告山越一正は同目録(一六)及び(一七)記載の土地につき、被告佐藤悦子は同目録(一八)記載の土地につき、被告小坂富士久は同目録(二〇)ないし(二二)記載の土地につき、被告野崎木乗は同目録(二三)記載の土地につき、被告森下玉造は同目録(二五)記載の土地につき、被告梨谷忠正は同目録(二六)記載の土地につき、被告梨谷清治は同目録(二八)記載の土地につき、被告坂次政芳は同目録(二九)及び(三〇)記載の土地につき、被告高島外成は同目録(三一)及び(三二)記載の土地につき、被告小坂昭久は同目録(三三)記載の土地につき、被告山越初五郎は同目録(三四)記載の土地につき、原告に対し、真正登記名義の回復を原因として夫々その持分一〇分の一宛の各共有持分移転登記手続をせよ。
第三 原告の被告坂本松蔵、同坂次英治、同梨谷忠正に対するその余の請求はいずれもこれを棄却する。
第四 訴訟費用は、原告と被告梨谷忠正との間で生じた費用はこれを二分し、その一を原告の負担とし、その余を右被告の負担とし、原告と被告坂本松蔵、同坂次英治との間で生じた費用は全部原告の負担とし、原告とその余の被告らとの間で生じた費用は全部その余の被告らの負担とする。
事実
(甲)当事者双方の申立
(原告の請求の趣旨)
第一 被告小坂昭久、同高島外成、同梨谷清治、同森下玉造、同山越初五郎、同坂次政芳は原告に対し、真正登記名義の回復を原因として、別紙物件目録(一)ないし(一〇)記載の土地につき、被告小坂昭久、同高島外成、同梨谷清治、同山越初五郎はその持分七〇〇分の五宛の、被告森下玉造はその持分七〇〇分の三〇の、被告坂次政芳はその持分七〇〇分の一〇の各共有持分移転登記手続をせよ。
第二 被告石田都代志は同目録(一一)ないし(一四)記載の土地につき、被告上田加等は同目録(一五)記載の土地につき、被告山越一正は同目録(一六)及び(一七)記載の土地につき、被告佐藤悦子は同目録(一八)記載の土地につき、被告坂本松蔵は同目録(一九)記載の土地につき、被告小坂富士久は同目録(二〇)ないし(二二)記載の土地につき、被告野崎木乗は同目録(二三)記載の土地につき、被告坂次英治は同目録(二四)記載の土地につき、被告森下玉造は同目録(二五)記載の土地につき、被告梨谷忠正は同目録(二六)及び(二七)記載の土地につき、被告梨谷清治は同目録(二八)記載の土地につき、被告坂次政芳は同目録(二九)及び(三〇)記載の土地につき、被告高島外成は同目録(三一)及び(三二)記載の土地につき、被告小坂昭久は同目録(三三)記載の土地につき、被告山越初五郎は同目録(三四)記載の土地につき、原告に対し、真正登記名義の回復を原因として夫々その持分一〇分の一宛の各共有持分移転登記手続をせよ。
第三 訴訟費用は被告らの負担とする。
(請求の趣旨に対する被告らの答弁)
第一 原告の請求をいずれも棄却する。
第二 訴訟費用は原告の負担とする。
(乙)当事者双方の主張
(原告の請求原因)
第一原告の持分取得原因の経緯
一(一) 別紙物件目録記載の土地(以下、本件各土地という。個別にいうときは、本件(一)土地、本件(二)土地などという)はもと岐阜県大野郡白川村(以下、単に白川村という)の所有であるところ、大正九年二月二四日右土地上に森下菊次郎、高島秀孝、梨谷兼助、小坂久助、山越伊之助、坂次一芳、坂本松之助のために入会権が設定され、右訴外人らが本件各土地を使用収益してきた。
(二) しかるところ、大正一三年ごろ白川村は右各訴外人に森下太之右エ門を加えた八名に本件各土地を売却し、爾来右八名の共有となった。
(三) 尚、右共有持分については、梨谷兼助の分は昭和一五年二月一三日家督相続により被告梨谷清治が、森下菊次郎の分は大正一三年五月二六日家督相続により森下喜代松が、森下太之右衛門の分は昭和一一年二月一二日家督相続により被告森下玉造が夫々相続した。
二 尚、本件各土地は大正一三年の所謂特売地と称するものであるが、右一(二)の売却処分につき争いがあるのでこれをふえんする。
(一) もともと白川村平瀬地区は明治六年以降の地租改正処分により、当時いやしくも部落民の収益権を認めるべきところはすべて民有地とされ、そのうち一部については個人名義として、その余は旧村有(元部落有)として団体名義(以後公有地とされた)で地券の交付を受け部落有と観念された。以後、明治二二年四月以降の町村制施行によりこれが白川村に承継され、登記法施行時には単独所有権ないし共有権を有する者にはその旨の登記がなされた。
(二)(1) 右一(二)の大正一三年の白川村の売却は同村の議決によってなされ、又その際右一(二)の訴外人らの間に誓約書が作成されている。
右誓約書第一項には「互ニ他人ノ使用収益地ハ分与ノ申出デヲ成サザル事」とあり、第二項には「各個人使用収益地ヲ分筆セズ」とあり、第三項には「特売地中共同地ハ個人使用地」とある。
(2) これを要するに、右売却はこれら訴外人らに単独所有権を取得させるものでないことを意味する。これは右(一)の歴史的沿革的事実からも明らかであるし、右誓約書には「使用収益権」「個人使用地」の文言を用い、又、右議決は特売地は旧来の慣行により現在「使用収益」の旧慣を有するものに特売するとし、いずれも所有権という文言が使われていないことからも明らかである。
又、右誓約書は「村有土地特売相成候ニ付テハ」とされており、大正一三年旧慣廃止の議決書には「村有(元部落有)財産整理処分並ニ町村制第九十条ニ依ル旧慣廃止ノ件」とされており、明らかに旧来は村有(部落有)であったものに付、単独所有権が混在することはありえないことがここでも明らかである。
(3) さらに、右議決書によれば、有償無償の区別がなされている他、特売地は右使用収益の旧慣を有するものに特売するものとし、特売代金は特売処分の日より一年以内に完納させ、これを村基本財産に蓄積編入するとある。
これは明らかに特売地は村有とされ、旧慣により使用収益権を有する、即ち入会権を有する者に特売されたものであって、特売前後を通じて個人の単独所有権を窺いうる要素は全く存しない。
このことは、もともと村有財産の特売は、公有地について町村制が施行された以降、入会権が政府ないし自治体の入会地収奪政策の過程で、その妥協として使用収益権を有する入会権者に特売されたものであることからも窺いうるところである。
(4) 又、右議決書によれば、「村有(部落有)財産ニ付町村制第九十条ニ依ル旧来ノ慣行ニ依リ関係住民ニ於テ進退シツツアル使用収益ノ旧慣ハ整理処分ト同時ニ総テ之ヲ廃止スルモノトス」と規定されている。
従って、特売地中に単独所有権が混在しているとすれば、この時点において単独名義の所有権移転登記を経由すれば足りることであって、しいて誓約書を作成する必然性は全くない。誓約書が作成されたのは明らかに特売地には単独所有権は存在せず、単に使用収益権が慣行として存在したにすぎないことを意味する。即ち、旧慣廃止に際し、従前の使用収益権を相互に信頼し、又分割に際しても大正一三年の特売時の状況を尊重するとともに右誓約書第三項において従前の使用状況を前提にした分割の基準について誓約したものである。
被告らは右誓約書第三項は単独所有地各々は面積に広狭があり不同であるので、最後に分割することがあればその時にまず面積の少い者から肥沃の土地より任意に分与を受けることを定めたものと主張するが、同項の個人使用地及び第一項第二項の個人使用収益地を単独所有地と解するとするなら何故に大正一三年に至り右誓約書第三項の調整が必要であったのか説明できず、結局単独所有権ということの内容は所有権にあらざる所有権ということにしかならず、その実質は優先的使用収益権と言わざるを得ないはずである。
(5) 以上を要するに、特売地は特売により旧来の入会権を廃し、共有形態となるとともに、誓約書は一方において大正一三年当時の使用収益状態を尊重し、他方使用地の不同について肥沃の土地をもって調整し、共有者が平等になるよう分割の基準を誓約したもので、分割までは共有形態にあるといわざるを得ないものである。
第二原告の持分取得原因
一(一) さて、前項一(三)の持分割合については昭和一七年九月二〇日高山区裁判所において調停が成立し、小坂久助、山越伊之助、高島秀孝、並びに被告梨谷清治は夫々七〇〇分の九五、坂次一芳、坂本松之助は夫々七〇〇分の九〇、森下喜代松及び被告森下玉造は夫々七〇〇分の七〇となった。
(二) 右のうち森下喜代松は昭和五一年一月二四日死亡したのでその子である原告が本件各土地の右共有持分を相続した。
従って、右各土地の原告の持分は七〇〇分の七〇(一〇分の一)宛である。
二 尚、右一(一)の調停内容についても争いがあるのでこれをふえんする。
(一)(1) 前項二で述べたように特売地につき単独所有地は存在せず、従って右調停条項でいう「共有財産」というのはあくまでも特売地を意味し、特売地全部の持分割合を定めたものである。
(2) 尚、被告らは水谷境なるもので原告側と被告森下玉造側の所有地部分は分割されていたと主張するが、この水谷境は大正一三年の村有財産の処分の時に廃止されている。
即ち、明治三六年原告の先代森下菊次郎は森下太郎右エ門の家督を相続し、白川村平瀬地区七家のうちの一家を形成していたところ、大正二年に至り被告森下玉造の先代森下太之右エ門との間で紛争が生じ、同年八月九日共有地につき水谷境を境として下方については右森下菊次郎が右七家のうちの一家として、上方を右森下太之右エ門が右七家のうちの一家として使用収益することに合意し、これについては他家も了承し区民契約をした。もっとも、家督相続人はあくまで森下菊次郎とされていた。
然るに、大正九年の白川村との地上権、永小作権設定契約については、森下菊次郎を除外して太之右エ門名義で契約したことから、右森下菊次郎及び森下太之右エ門の申出により森下菊次郎に訂正されたものの、当時以降の認識としては白川村平瀬地区は森下家二家を含めた八家平等とされていたことから特売地については八家平等に特売され、それを前提とした誓約書も取り交されていたが、昭和九年に至りこの点が問題となり、同年三月一九日協議の結果、使用収益の持分を原告の先代森下喜代松を〇・八、被告の先代森下太之右エ門を〇・七と決議された。同年同月二八日白川村臨時急施村会において同村平瀬地区特売地については森下菊次郎に特売すべきところを大正一三年旧慣廃止にあたり更に森下太之右エ門をも加えた八家に特売したことは大正九年の村会決議にもとることとなるが、今直ちに森下太之右エ門に対する特売を取消すことは区内平和の維持上できないので、大正一三年の議決どおり八家に特売したことを追認し、以後八家として特売地を処理することに決議された。
従って、右決議により少くとも大正一三年に遡って水谷境なるものは廃止されたのである。
かように解さないと前記調停内容は説明できないことになる。即ち、この調停の請求原因は山林八町歩の売買代金について原告が八家を前提として八家の共有であるので売買代金の八分の一の権利があると主張して提訴したものであって、仮りに水谷境がこの当時存在しているとすればかような請求原因はありえないこととなるはずである。
(二) 被告らの主張を前提とすれば、開墾或いは使用収益地は単独所有地ということになるが、かくては昭和一七年に共有地について持分を決しても実質的意味がなくなる。あるとすれば、せいぜい未使用収益地ないし未開墾地に限られることになるが、これは大正一三年の誓約書の趣旨で被告らも認めるその当時の現状の尊重の趣旨に違背することになるし、肥沃の土地による調整も無意味なことになるのであって、前記調停の趣旨がそのようなものであるとは到底考えられないことである。
(三) 白川村平瀬地区特売地の土地の固定資産税については、本件が問題になる当時まで昭和一七年の調停に基いて各家に割り当てられており、あくまでも共有を前提としたものであったのであり、この点からしても右調停の趣旨について単独所有地は含まないということはありえず、調停条項にいう「共有財産」とは特売地すべてを含むこと明らかである。
(四) また右平瀬地区の測量においても費用負担は前記調停による割合でしており、これは明らかに特売地全部について八家共有を前提にしているものである。
第三被告らの登記
一(一) 前記第二項一(一)のとおりであるとすると、被告梨谷清治、並びに小坂久助の子である被告小坂昭久、山越伊之助の子である被告山越初五郎、高島秀孝の子である被告高島外成の本件各土地に対する持分は各々七〇〇分の九五となるべき筋合である。
又、坂次一芳の子である被告坂次政芳、坂本松之助の子である坂本徳右エ門の右各土地に対する持分は各々七〇〇分の九〇となり、被告森下玉造の右各土地に対する持分は七〇〇分の七〇となるべき筋合である。
(二) 従って又、その後の右各土地の特定承継者も右の持分に応じた分しか承継できないか、或いは原告の持分を除いた持分しか取得できない筈である。
二(一) 然るに、本件(一)ないし(一〇)土地については、坂本徳右エ門の他、被告高島外成、同小坂昭久、同梨谷清治、同山越初五郎、同坂次政芳、同森下玉造が夫々七分の一の割合で共有持分の移転登記をしている。
(二)(1) 又、本件(一一)ないし(一四)土地については被告石田都代志が、
(2) 本件(一五)土地については被告上田加等が、
(3) 本件(一六)及び(一七)土地については被告山越一正が、
(4) 本件(一八)土地については被告佐藤悦子が、
(5) 本件(一九)土地については被告坂本松蔵が、
(6) 本件(二〇)ないし(二二)土地については被告小坂富士久が、
(7) 本件(二三)土地については被告野崎木乗が、
(8) 本件(二四)土地については被告坂次英治が、
(9) 本件(二五)土地については被告森下玉造が、
(10) 本件(二六)及び(二七)土地については被告梨谷忠正が、
(11) 本件(二八)土地については被告梨谷清治が、
(12) 本件(二九)及び(三〇)土地については被告坂次政芳が、
(13) 本件(三一)及び(三二)土地については被告高島外成が、
(14) 本件(三三)土地については被告小坂昭久が、
(15) 本件(三四)土地については被告山越初五郎が、
夫々所有権移転登記をしている。
第四結論
一 本件(一)ないし(一〇)土地については、原告に対し、前記第三項二(一)の被告らのうち、(1)被告小坂昭久、高島外成、同梨谷清治、同山越初五郎は夫々持分七〇〇分の五宛、(2)被告森下玉造は持分七〇〇分の三〇、(3)被告坂次政芳は持分七〇〇分の一〇の各移転登記手続を為すべき義務がある。
二 その余の土地については、原告に対し、前記第三項二(二)の被告らは夫々の登記名義を有する土地につき、夫々特分一〇分の一(七〇〇分の七〇)宛の各移転登記手続を為すべき義務がある。
三 よって請求の趣旨記載のとおりの判決を求める。
(請求原因に対する被告らの答弁)
第一 請求原因第一項一(一)を否認する。(二)のうち、大正一三年ごろ森下太之右エ門を除く原告主張の者に本件各土地が売却されたことを認める。但し、本件(二四)土地は被告坂次政芳の先代からの所有地であり右による売却地ではない。又本件(二七)土地も被告梨谷清治の先代からの所有地であり右による売却地ではない。その余を否認する。(三)のうち、相続人関係を認め、その余を否認する。同項二(一)及び(二)(1)ないし(5)を全て争う。
同第二項一(一)のうち、調停が行われたことを認める。但し、右調停は本件各土地とは無関係である。(二)のうち、相続人関係を認め、その余を否認する。同項二(一)(1)(2)、(二)ないし(四)を全て争う。
同第三項一(一)(二)を否認する。同項二(一)(二)を認める。但し、(二)(5)を否認する。
同第四項を争う。
第二 一(一)(1) 岐阜県大野郡白川村大字平瀬地区は明治以前は森下家、梨谷家、小坂家、山越家、高島家、坂本家、坂次家の七家しかなく、近代所有権の確立するまで部落の土地は、この七家一部落のいわゆる部落有であった。
右部落有地は不動産登記法施行にともない、一応村有名義及び一部個人名義(宅地及び田畑)で登記されていたが、共有地は七家一部落の所有であったことにはかわりがない。
(2) 七家は互いに分家を禁じ、土地所有の細分化を防止しながら、七家各家が独自に開墾し使用しているところは、単独所有とすることを認めあって来たところ、明治三六年に至り、原告森下春雄には三先代に当り、被告森下玉造には先々代に当る森下太郎右エ門の代になって先妻の子森下菊次郎との間に紛争を発生させた。
即ち、森下太郎右エ門は後妻の子森下太之右エ門をかわいがり、同人に家督をつがせたかったがそれがならず、同人を明治三三年分家させたうえ、明治三四年隠居し、家督を森下菊次郎に譲った。
しかるに、家督は菊次郎に譲られたものの、菊次郎は従前の本家を出て別居し、太郎右エ門自身は後妻と太之右エ門とともに本家にとどまり、土地については前記土地所有の細分化禁止の約定のところ、特に太之右エ門のため、明治三六年すでに登記済の単独所有地は別として、前記独自に開墾し使用中の単独所有地並びに七家共有地について水谷洞なる場所を境に(以下、水谷境と称する)下流は菊次郎家の所有とし、上流は太郎右エ門の所有とすることに、両家に合意ができ、他の六家も特にこれを了承して来たものである。
(3) しかるに、大正一三年旧慣廃止にともない、白川村は前記部落有地(開墾単独所有地と共有地)を旧部落七家に払い下げることとなり、その当時七家が表向き八家となっていたので八家に払い下げられた。
然しながら、その八家内の内部持分は、あくまで七家であって、森下家は両家で一家分であり、両家は水谷境でその払い下げられた単独所有地も共有地も分割して所有していたのである。
(4) 右特売に先だち、大正九年白川村会において、表面上村名義となっている旧部落有地を個人所有地と同一の取扱いをするのは不適当との意見により、七家に対しその方法として、山林については地上権を、農地については永小作権を設定した。
但し、森下家に対しては二家に対し右用役権を設定できないので、両家の協議のうえ一応家督相続人たる森下菊次郎が森下両家を代表して右設定を受けることとなったが、その内実は水谷境により上、下を分割してそれぞれ使用収益し、両家あわせて一家分としてきたものである。
以上の経過により明らかなとおり、特売時において表面上八家に特売されてはいるものの、その内実は七家であり、森下家は二家で一家分であったのである。
(二) このことはまた、大正一三年所謂旧慣廃止にともなう特売に際して七家が白川村に提出した誓約書によっても明らかである。
その第一項には「互に他人の使用収益地は分与を申出で成さざること」、第二項には「各個人使用収益地を分筆せず合反別に依り今回特売を受くるものにつき分筆実地調査の際は、相互間の使用地以外に権利を主張せざること」、第三項には「特売地中共同地は、個人使用地に不同あるにより、其の不足分は山林中肥沃の場所を以って補充し、其の不足分は平等に分割する事」と各記載されている。
このことにより、一つには当時所謂共有地と単独所有地が存在していたこと、二つには現状を是認すること、即ち森下家二家にも特売されるが、森下二家には明治三六年の水谷境が生きていること、この二つの事実が明らかである。
尚、第三項は単独所有地は各々面積に広狭があり不同であるので、最後に分割することがあればその時にまず面積の少い者から肥沃の土地より任意に分与を受けることを定め、最終的にはその取分が七家平等(森下家は二家で一家分)になるようにという取り決めである。
二(一)(1) 昭和一七年、森下太之右エ門の相続人である被告森下玉造は、その共有する水谷境以南(上流)の共有地が七家により東邦電力へ売却され、その代金は水谷境より上流であるから当然太之右エ門家が取得すべきであるところ、他の六家が菊次郎へ代金を引き渡したため、その代金の分配を求めて訴訟を提起した。
(2) その結果調停となり、つぎのとおりの調停が成立した。
(イ) 各個人所有地は従前のままとし、従って森下家は水谷境により両家その所有を分ち、
(ロ) 共有地については、(Ⅰ)森下家を除く六家は従前の割合を各五分ないし一割減じて九割五分ないし九割とする。(Ⅱ)森下両家は水谷境を廃止して共有地全部について各七割とする。
(二) 右調停条項中第一項の「共有財産の持分割合を左の如く定む」とある「共有財産」は、従って当然単独所有地を含まないのである。
単独所有地は従前のまま単独所有地であり、森下家についていえば水谷境で両家分割されているのである。
現に単独所有地については、第三者に売却するのはその単独所有者の専権であり、その対価も同人が取得するのである。原告が以前に処分した水谷境下流の土地のときも、他の七家がこれに口をはさみ所有権を主張したこともなければ、その対価を要求したこともない。原告のみがそれを取得しているのである。
また、被告らがその各個人所有地を任意に処分したときも原告森下家がそれに異議をはさんだこともない。
(三) 因みに、原告の先代森下喜代松は本件売渡処分を受けた土地の一部について(岐阜県大野郡白川村大字平瀬字織ヶ瀬四九四番二土地外二筆)、昭和四九年一〇月一一日その登記名義人である白川村に対し岐阜県へ直接移転登記して貰い度い旨の書面を提出している。
結果は、建設省へ公衆用道路として買収されたのであるが、これにつき右訴外人は単独で処分しているのである。
その他にも、右同所四九四番七土地、四九四番八土地を原告は単独所有地として処分し、その代金を原告が単独で取得しているのである。
三(一) 本件各土地のうち、本件(二三)、(二四)、(二七)土地を除き、国道(岐阜県大野郡白川村大字平瀬字下川原三〇三番三)より東側の土地は、原告森下家を除く七家が二一個に分割して前記調停よりずっと以前より単独所有地として分割所有していたところである(右地域は水谷境より上流であって、森下家の単独所有地があるとすれば、被告森下家の単独所有地があるところであり、原告森下家にはないところである)。
ところが、昭和二二、三年ごろに本件(四)ないし(一〇)、(一五)、(一八)土地については、白川村の高等学校等の新設のため、無償使用の供出の申出が同村よりあり、原告を除く七家が各単独所有地を同面積供出して一ヶ所に集め(従って、少しづつ単独所有地の位置がずれた)、村に無償で使用することを応諾した(以下、新規七家共有という)。
然るに、中学校は移転となり、昭和三三年ごろ供出者に返還されたので、原告を除く七家は一部は第三者に処分し、一部は村役場、農協等に賃貸している。
右処分対価は当然被告七家が平等に取得したし、現に賃貸中の賃料は原告を除く七家が平等に分配している。
この取扱いについて、原告側から何ら異議など出たことはない。
(二) 右国道の西側には、前記調停条項の共有地が多くあり、調停条項どおりの割合で原告八家が共有し、第三者に賃貸している土地は八家が右割合により賃料を配分取得している。
この取扱いも右調停以来、現在に至るまで続いているものである。
(三) 本件土地のうち、本件(一)ないし(一〇)土地は以上のとおり被告ら七家の単独所有地を無償使用のために供出してはからずも出来た共有地であって、前記調停条項の「共有地」とは何らのかかわり合いのないものである。
今回、平瀬地区全地域にわたって実行されている測量のうち、この部分が国道沿いのことで先に測量が完了したので、被告ら七名々義に実体に従って登記されたのである(尚、本件(三)土地は測量により出て来た出目であって、旧七家の特定一家のものではないので、旧七家の共有としたものである)。
今回測量が完了したうち、国道西側の八家共有地についてはもちろん、八家共有名義の登記がなされているのである。
いずれも登記原因は登記されたころの便宜の日時の贈与としている。
(四) 本件(一五)(一八)土地を除くその余はすべて被告七家の単独所有地であったところであり、それらは数年以前にそれぞれの単独所有者より現在所有名義人の被告らが買い取ったが、兄弟子供で贈与を受けたか、それとも当初の単独所有のままであるかどちらかである。原告の単独所有地はないところである。
本件(二五)土地は森下家の所有地であるが、水谷境より上流であるから、被告森下家の所有である。
(被告らの抗弁)
第一 大正一三年二月原告の先代森下喜代松と、被告梨谷清治、同森下玉造、並びにその余の被告小坂昭久、同山越初五郎、同高島外成、同坂次政芳、及び坂本徳右エ門の各先代に当る小坂久助、山越伊之助、高島秀孝、坂次一芳、坂本松之助との間で、所謂単独所有地である本件各土地につき、互いに分与を申出ないこと、ないし権利主張をしない旨の合意が成立した。
第二 一(一) 本件(一一)ないし(一四)土地は相被告森下玉造が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続したものであり、昭和五一年被告石田都代志が相被告森下玉造から売買により占有を承継したものである。
(二) よって、被告石田都代志は右取得時効を援用する。
二(一) 本件(一五)土地は少くとも昭和三六年一二月三一日ごろまでに被告上田加等が相被告梨谷清治、同森下玉造、同山越初五郎、同小坂昭久、同高島外成、同坂次政芳、及び坂本徳右エ門ないしその先代から売買により占有を取得したものである。
(二) 仮りにそうでなくとも、右土地は昭和三三年ごろ白川村より右相被告らが贈与を受けて占有を継続し、右(一)のとおり被告上田加等が売買により占有を承継したものである。
(三) よって、被告上田加等は右いずれかの取得時効を援用する。
三(一) 本件(一六)(一七)土地は、相被告山越初五郎が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続したものであり、昭和五一年五月二〇日被告山越一正が贈与により占有を承継したものである。
(二) よって、被告山越一正は右取得時効を援用する。
四(一) 本件(一八)土地は右二(一)記載の相被告らが大正一三年ごろ売渡処分を受けて占有を継続し、相被告高島外成の先代の高島正が昭和四〇年ごろ売買により占有を承継し、更に昭和五一年五月一二日被告佐藤悦子が贈与により占有を承継したものである。
(二) よって、被告佐藤悦子は右取得時効を援用する。
五(一) 本件(一九)土地は坂本松之助が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続し、昭和五一年五月二七日被告坂本松蔵が贈与により占有を承継したものである。
(二) よって、被告坂本松蔵は右取得時効を援用する。
六(一)(1) 本件(二〇)(二一)土地は相被告小坂昭久が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続し、昭和五一年四月二一日被告小坂富士久が贈与により占有を承継したものである。
(2) 本件(二二)土地は相被告梨谷清治が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受け占有を継続し、昭和五一年四月二一日被告小坂富士久が売買により占有を承継したものである。
(二) よって、被告小坂富士久は右各取得時効を援用する。
七(一) 本件(二三)土地は昭和四三年一〇月一日小川光雄から被告野崎木乗が売買により占有を取得したものである。
(二) 仮りにそうでなくとも右土地は相被告坂次政芳から昭和四三年七月三〇日右訴外人が売買により占有を取得し、更に右(一)のとおり被告野崎木乗が売買により占有を承継したものである。
(三) 仮りにそうでなくとも、右土地は相被告坂次政芳が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続し、その後右(二)の経過により被告野崎木乗が占有を承継したものである。
(四) よって、被告野崎木乗は右いずれかの取得時効を援用する。
八(一) 本件(二五)土地は森下太之右エ門が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続し、その後被告森下玉造が昭和一一年二月一二日家督相続により占有を承継した。
(二) よって、被告森下玉造は右取得時効を援用する。
九(一) 本件(二六)土地は相被告梨谷清治が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続し、昭和五一年四月一〇日被告梨谷忠正が贈与により占有を承継したものである。
(二) よって、被告梨谷忠正は右取得時効を援用する。
一〇(一) 本件(二八)土地は梨谷兼助が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続し、昭和一五年二月一三日家督相続により被告梨谷清治が占有を承継した。
(二) よって、被告梨谷清治は右取得時効を援用する。
一一(一) 本件(二九)(三〇)土地は坂次一芳が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続し、その後被告坂次政芳が昭和四二年四月二三日相続により占有を承継した。
(二) よって、被告坂次政芳は右取得時効を援用する。
一二(一) 本件(三一)(三二)土地は高島秀孝が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続し、その後高島正が昭和二一年三月一八日家督相続し、更に被告高島外成が昭和五七年九月二九日相続により順次占有を承継した。
(二) よって、被告高島外成は右取得時効を援用する。
一三(一) 本件(三三)土地は小坂久助が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続し、その後被告小坂昭久が昭和五〇年二月六日相続により占有を承継した。
(二) よって、被告小坂昭久は右取得時効を援用する。
一四(一) 本件(三四)土地は山越伊之助が大正一三年ごろ単独で売渡処分を受けて占有を継続し、その後被告山越初五郎が昭和一二年五月一〇日家督相続により占有を承継した。
(二) よって、被告山越初五郎は右取得時効を援用する。
第三 尚、本件(一九)土地は昭和五六年八月一日被告坂本松蔵が坂本靖に贈与し、その旨の所有権移転登記を経由している。
従って、現在被告坂本松蔵は右土地の登記名義人ではない。
(抗弁に対する原告の答弁)
全て否認する。
(原告の再抗弁)
本件各土地は共有地であるから他主占有である。従って、被告ら主張の取得時効はその前提を欠く。
殊に、本件各土地は大正一三年の旧慣廃止当時の状況を前提として分割されることからすれば、それ以後の使用収益は何らの優先権も持ちえない使用収益であって、分割に際しては覆滅せしめられるものであるから、かような使用収益をもってしては到底自主占有となし難い。又、右当時合意により調節される前提がある以上、他の共有者は権利の上に眠っていたとは言い難く、更には時効中断の手段すら採りえない状況で時効取得はその前提を欠く。
(再抗弁に対する被告らの答弁)
否認する。
(丙)証拠関係《省略》
理由
(甲)序説
第一本件各土地の分筆経緯
《証拠省略》によると、
一(一) もと岐阜県大野郡白川村大字平瀬字下川原旧地番三〇七番一田二四六平方米は昭和四九年八月一〇日右同所同番地雑種地と地目変更された後、昭和五〇年三月二八日後記二(一)のとおり右同所三〇三番一土地に合筆され、
(二) 右同所旧地番三〇七番五田一八二平方米は昭和四三年七月四日右同所三〇七番一土地から分筆されたものであるが、昭和三二年五月宅地一八二・一八平方米に地目変更されており、更に昭和四九年八月一〇日雑種地一八二平方米に地目変更された後、昭和五〇年三月二八日後記二(一)のとおり右同所三〇三番一土地に合筆されたものであり、
二(一) もと岐阜県大野郡白川村大字平瀬字下川原三〇三番一田一七八平方米は昭和五〇年三月二八日右同所旧地番三〇五番一及び二、三〇七番一ないし五、四一二番五ないし七の各土地を合筆し、右同所三〇三番一雑種地一、七三四平方米となったが、
(二) 更に同年八月一一日右同所旧地番三一四番一、三一八番、四〇三番、四一二番一八、四一二番二二、四一二番二三の各土地を合筆し、右同所三〇三番一原野四〇、四二二平方米となり、
(三) 更に昭和五一年一月二六日右同所三〇三番一ないし四の各土地に分筆され、右同所三〇三番一土地は原野二二、七九〇平方米となり、更にこれが昭和五五年二月二〇日錯誤により右同所三〇三番一原野九六、三四九平方米となっていること、
三 右二(三)のとおり分筆された岐阜県大野郡白川村大字平瀬字下川原三〇三番二土地は昭和五一年三月一日つぎの(一)ないし(一三)のとおり分筆されていること、即ち、
(一) 右同所三〇三番八〇雑種地八〇平方米となり、これが同年三月二日右同所三〇三番八〇宅地八〇・三〇平方米に地目変更され、これが即ち本件(一)土地であること、
(二) 又、右同所三〇三番八一雑種地四九平方米となり、これが同年三月一日右同所三〇三番八一宅地四九・三五平方米と地目変更され、これが即ち本件(二)土地であること、
(三) 又、右同所三〇三番七八雑種地一〇四平方米となり、これが同年三月一日右同所三〇三番七八宅地一〇四・九七平方米と地目変更され、これが即ち本件(一二)土地であること、
(四) 又、右同所三〇三番七九雑種地二三一平方米となり、これが同年三月一日右同所三〇三番七九宅地二三一・五八平方米と地目変更され、これが即ち本件(一三)土地であること、
(五) 又、右同所三〇三番七七雑種地二五〇平方米となり、これが同年三月一日右同所原野二五〇平方米と地目変更され、これが即ち本件(一六)土地であること、
(六) 又、右同所三〇三番七六雑種地二五二平方米となり、これが同年三月一日右同所原野二五二平方米と地目変更され、これが即ち本件(二〇)土地であること、
(七) (1)右同所三〇三番六六雑種地一五五平方米となり、これが同年三月一日右同所三〇三番六六宅地一五五・一二平方米と地目変更され、(2)更に同年四月二〇日これが右同所三〇三番八二土地と右同所三〇三番六六宅地五四・〇九平方米とに分筆され、同土地が即ち本件(二二)土地であること、
(八) 又、右同所三〇三番四九雑種地一八七平方米となり、これが同年三月一日右同所三〇三番四九宅地一八七・〇四平方米と地目変更され、これが即ち本件(二三)土地であること、
(九) 右同所三〇三番四八雑種地一八〇平方米となり、これが同年三月一日右同所三〇三番四八宅地一八〇・六三平方米と地目変更され、これが即ち本件(二四)土地であること、
(一〇) 又、右同所三〇三番七二雑種地二五二平方米となり、これが同年三月一日畑と一旦地目変更されたが、これが更に同年六月一八日錯誤により雑種地と地目変更され、これが即ち本件(二五)土地であること、
(一一) 又、右同所三〇三番五八雑種地七二平方米となり、これが昭和五三年一二月二日右同所三〇三番八三土地と右同所三〇三番五八雑種地六四平方米とに分筆され、同土地が即ち本件(二六)土地であること、
(一二) 又、右同所三〇三番四三雑種地六〇平方米となり、これが昭和五一年三月一日右同所三〇三番四三宅地六〇・四八平方米と地目変更され、これが即ち本件(二七)土地であること、
(一三) 又、右同所三〇三番六七雑種地三六六平方米となり、これが同年三月一日右同所宅地三六六・二一平方米と地目変更され、これが即ち本件(三四)土地であること、
四(一) もと岐阜県大野郡白川村大字平瀬字下川原三五三番二雑種地一二、九五九平方米は昭和五一年四月六日右同所三五三番土地から分筆されたものであるが、
(二) 更に右同日右同所三五三番二雑種地七、八八六平方米と右同所三五三番五五ないし七三の各土地に分筆され、
(1) 右のうち、右同所三五三番六〇雑種地二四九平方米は同年四月一〇日宅地二四九・二三平方米と地目変更され、これが即ち本件(四)土地であること、
(2) 右のうち、右同所三五三番六一雑種地一、〇七五平方米は同年四月一〇日宅地一、〇七五・九二平方米と地目変更され、これが即ち本件(五)土地であること、
(3) 右のうち、右同所三五三番六三雑種地三六七平方米は即ち本件(六)土地であること、
(4) 右のうち、右同所三五三番六五雑種地一九二平方米は即ち本件(七)土地であること、
(5) 右のうち、右同所三五三番六七雑種地一六二平方米は即ち本件(八)土地であること、
(6) 右のうち、右同所三五三番七一雑種地一三四平方米は同年四月一〇日宅地一三四・〇四平方米と地目変更され、これが即ち本件(九)土地であること、
(7) 右のうち、右同所三五三番七二雑種地七四六平方米は同年四月一〇日原野七四六平方米と地目変更され、これが即ち本件(一〇)土地であること、
(8) 右のうち、右同所三五三番五九雑種地二八四平方米は同年四月一〇日宅地二八四・五八平方米と地目変更され、これが即ち本件(一一)土地であること、
(9) 右のうち、右同所三五三番五八雑種地六五平方米は同年四月一〇日宅地六五・七一平方米と地目変更され、これが本件(一四)土地であること、
(10) 右のうち、右同所三五三番六六雑種地二〇〇平方米は同年四月一〇日宅地二〇〇・六五平方米と地目変更され、これが即ち本件(一五)土地であること、
(11) 右のうち、右同所三五三番五七雑種地一〇一平方米は同年四月一〇日宅地一〇一・五〇平方米と地目変更され、これが本件(一七)土地であること、
(12) 右のうち、右同所三五三番六二雑種地四六六平方米は即ち本件(一八)土地であること、
(13) 右のうち、右同所三五三番五六雑種地五〇平方米は同年四月一〇日原野五〇平方米と地目変更され、これが即ち本件(二一)土地であること、
(三) 更に右(二)の右同所三五三番二雑種地は(1)昭和五一年四月八日右同所三五三番二雑種地四、六三二平方米と右同所三五三番七四雑種地三、二五四平方米に分筆され、(2)更に右同所三五三番二雑種地は同年四月三〇日右同所三五三番二雑種地二八七平方米と右同所三五三番七七ないし八一の各土地に分筆され、(3)更に右同所三五三番二雑種地は昭和五三年三月二九日右同所三五三番二雑種地二七二平方米、即ち本件(三)土地と右同所三五三番九九土地に分筆されていること、
(四) 右(三)(1)の右同所三五三番七四雑種地は、(1)昭和五一年五月七日右同所三五三番七四雑種地三、〇四〇平方米と右同所三五三番八二雑種地二一三平方米、即ち本件(三二)土地に分筆され、(2)更に右同所三五三番七四雑種地は昭和五三年三月二九日右同所三五三番七四雑種地三、〇一八平方米、即ち本件(一九)土地と右同所三五三番九六雑種地に分筆されていること、
(五) 右(三)(2)の分筆された各土地のうち、
(1) 右同所三五三番七九雑種地一、一三三平方米は昭和五三年三月二九日右同所三五三番七九雑種地一、一一五平方米と右同所三五三番九七土地に分筆され、更に同年一二月二日右同所三五三番七九雑種地八七六平方米、即ち本件(二八)土地と右同所三五三番一〇〇、三五三番一〇一の各土地に分筆されていること、
(2) 右同所三五三番七七雑種地九三四平方米は、即ち本件(二九)土地であること、
(3) 右同所三五三番八一雑種地一、〇九二平方米は同年三月二九日右同所三五三番八一雑種地一、〇三九平方米、即ち本件(三〇)土地と右同所三五三番九八土地に分筆され、
(4) 右同所三五三番八〇雑種地一六五平方米は即ち本件(三一)土地であること、
(5) 右同所三五三番七八雑種地一、〇一八平方米は、即ち本件(三二)土地であること、
が各認められるところである。
第二右分筆の性質
ところで、右第一項の分筆の経緯について注目されるのは同項一(一)(二)、二(一)ないし(三)、三(一)ないし(一三)でみられるとおり岐阜県大野郡白川村大字平瀬字下川原所在の旧地番の土地の一部は昭和五〇年三月二八日及び同年八月一一日右同所三〇三番一土地に集中的に合筆され、これが短期間のうち、即ち昭和五一年一月二六日及び同年三月一日に多くの筆数の土地に分筆されており、又、同項四(一)ないし(五)でみられるとおり右同所旧地番の土地の一部は右同所三五三番一の土地に集中的に合筆された経緯は必らずしも明らかではないが、これから昭和五一年四月六日右同所三五二番二土地に分筆されたのち、同土地が短期間のうちに、即ち昭和五一年四月六日、同年四月八日、同年四月三〇日、同年五月七日の四回に亘り多くの筆数の土地に分筆されていることが理解されるのである。
しかも、右集中の過程では右同所旧地番の各土地所有者から白川村へ贈与を原因とする所有権移転登記がなされ、且つ又分筆の過程でも同村から各土地名義人へ贈与を原因とする所有権移転登記手続がなされていることが《証拠省略》によって認められるのである。
これは近代土地所有権制度、ないしその公示制度である不動産登記制度の理論から看て極めて異例であるといわなければならないところ、《証拠省略》を検討し、更に併せて《証拠省略》を比較対照し、白川村字平瀬部落はそれが小規模な村落でありしかも旧来からの人々の結合意識の強い村落であることをも併せ考えると、右各贈与は何より無償の権利移転行為であるし、殊に《証拠省略》には「整理前」と記載されていることからすると、土地改良法等の手続を採らず右贈与という法的形式を借りての白川村独特の方法で土地区画整理が行われ換地処分が為されたものであり、関係当事者の間では、そこに、即ちおびただしい又急激な分合筆の間にみられる白川村への贈与、及び同村からの贈与の間には何ら実質的な権利の移動はないものとして取扱われ、人々も従前使用していた土地が多少の形状位置が変ったにせよ単に新たな地番が付せられた丈のものとして旧来の意識のまま、即ち後記のとおり大正一三年に売渡処分されたものはその慣行に従いその性質を有するものとして、旧来の単独所有地はそのままの性質を有するものとして同一性あるものとして使用し続けて来たと考えざるを得ないのである。
以下、このことを念頭において考えて行くこととする。
(乙)原告の持分取得原因についての考察
第一大正一三年に至るまで
一(一)被告梨谷清治(第一回)、同森下玉造は、明治のころ本件各土地を含む岐阜県大野郡白川村(以下、単に白川村と略称する)の平瀬地区の土地は住民が銘々山林を開墾し田や畑を作ったり、材木を伐採し植林等をし管理すれば自分の所有地となった、その為には事前に平瀬部落の者に承認して貰う必要があった、と供述している。
このことからすれば、明治のころの本件各土地は平瀬地区住民の間に右供述内容のような慣行があり、その住民の間にもそのように開墾された土地については所有権を取得すると観念されていたこと、他方その地盤は平瀬部落の所有とも観念されていたことから、住民のもつ権利は旧来からの入会権と考えられ、入会地についての共同所有の権限は所有者個人と同時に団体に分属するいわば総有関係にあったと考えられる。
(二) ところで、《証拠省略》によれば、大正二年八月九日白川村字水谷を境界として上方を森下太郎右エ門、下方を森下菊次郎の各所有とする旨の白川村字平瀬区長梨谷兼助をはじめとする同地区住民高島秀孝、山越伊之助、坂本松之助、坂次弥平、小坂治助、小坂藤助の森下太郎右エ門、森下菊次郎宛の決議、並びに右同日右森下両名より平瀬区内御中と題した同趣旨の差入証書が存在することが認められる。
尚、右森下太郎右エ門はそのころ既に死亡していることが《証拠省略》によって認められるので、これは同被告の供述及び弁論の全趣旨により森下太之右エ門と解する。以下、この二通の書面につき森下太郎右エ門とあるを森下太之右エ門と称する。
(三)(1) 《証拠省略》によると、大正九年二月本件各土地の旧地番を示すと思われる岐阜県大野郡白川村大字平瀬字下川原四一三の一ないし三、三九六の一ないし三、三九七土地の他、字高ダイ、綾ヶ瀬、池平らの土地につき、山越伊之助、坂本松之助、高島秀孝、森下太之右エ門、梨谷兼助、坂次弥平、小坂つを永小作権者とし、設定者を白川村長として期間を五〇年とする永小作権設定契約書が作成されているが、尚右書面には土地所有者白川村右管理者白川村長と記載されていることが認められる。
(1) 又、《証拠省略》によると、右同月ごろ右平瀬地区の弓ヶ洞、経塚等その余の土地についても、右(1)の者らを地上権者として設定者を白川村長とし同様の内容の記載のある地上権設定契約書が作成されていることが認められる。
(四) 又、《証拠省略》によると、大正九年二月二五日地上権ないし永小作権設定につき期間を一〇〇年とする他、森下太之右エ門名義を森下菊次郎名義に変更する旨の白川村会会議による議決が行われていることが認められる。
二 以上大正一三年以前の状況、即ち本件売渡処分がなされるまでの状況を看るに、旧くは右総有であると考えられる本件各土地は明治五年の地租改正やその過程で行われた明治七年の土地官民有区分の強制実施などによる近代的土地所有権確立の過程、更には明治二一年の町村制実施等により右の地盤は平瀬部落有のものから白川村有となったこと、その過程を経て大正のころには本件各土地を含む平瀬地区の土地は既に白川村の所有のものとなっていたことが理解されるところ、右一(二)の水谷境から上下を分ちそれぞれの所有とすることは旧来の慣行を踏まえた上でなされたと看られるが、尚近代的土地所有制度の観点から看ると、右の慣行は右白川村の所有権と相反する権利を認め合うこととなるのでそのままには是認し難く、この白川村の所有権を前提としてみるならば、尚本件各土地について右一(一)の入会権が存在し、森下太之右エ門、森下菊次郎両家の個々の入会う権利につき入会権の主体である平瀬地区部落との間に右差入証書による合意がこの両家の間でなされたものと看るべく、同村との間では右近代化の過程の中で一応同村の所有権と矛盾しない何らかの用益的権利についての取り決めをしようとする萌芽があり、これが右一(三)(四)に看るとおり、大正九年には期間の点はとも角一旦は使用収益権能を伴った地上権ないし永小作権に明確化したものと看てよいと思われる。
要するに、右時代における本件各土地等をめぐる実際上の取扱いは、白川村の所有を前提として同村に従来行われていた慣行によって行われていた部分が混在し整理化されて行く過程と思われる。
第二大正一三年の売渡処分について
一 《証拠省略》によれば、
(一) 大正一三年本件各土地は、白川村から森下菊次郎、高島秀孝、梨谷兼助、小坂久助、山越伊之助、坂次一芳、坂本松之助、森下太之右エ門に売渡されたものであること、
(二) 当時、白川村平瀬地区では右森下両名を除く六家が存在していたものであるが、これより先の明治三三年ごろ原告森下春雄については三代先に当り、被告森下玉造については先々代に当る森下太郎右エ門には先妻の子である森下菊次郎と後妻の子である森下太之右エ門があったところ、森下太郎右エ門の家督は明治三四年ごろ右森下菊次郎がこれを相続し、右森下太之右エ門は分家をしたが、森下菊次郎は従前の家を出て別居し、本家には森下太之右エ門と森下太郎右エ門が留まることとなり、結局一戸を構える者が右森下両家を加えて八戸になっていた為、右(一)のとおりの売渡処分がなされたものであること、
が各認められる。
二 ところで被告らは、右売渡処分につき、表向き八家であるが森下家は両家で一家分であったと反論し、本件各土地の分については森下菊次郎、従って原告方の持分は含まれないものであると主張する。
そこで逐一検討する。
(一) まず、旧来の慣行の中に単独所有地とか共有地とか目されるものが存在したかどうか。
我が民法第一編ないし第三編(明治二九年法律第八九号)は明治三一年七月一六日施行され、又不動産登記法(明治三二年法律第二四号)も明治三二年六月一六日施行されている。そして、その民法第一七五条は物権法定主義を採用している。即ち、法律の認めない新しい種類及びこれと異る内容の物権の成立を否定するものである。これは旧来の土地の上に存在していた複雑な封建的物権関係を整理し、土地の権利関係を単純化し、所有権の他には一定種類の制限物権のみを認めるにとどめ、それ以外の権利によって所有権の制限されることを排除し、所謂「自由なる所有」を確立することが近代法の理想に適うし、又こうすることが排他性のある物権についての公示方法を技術的に可能にするからである。
この点から看れば、大正二年八月九日になされたとする前記第一項一(一)の決議及び差入証書、大正九年二月になされたとする同項一(二)(1)(2)の地上権ないし永小作権設定書は既に右民法及び不動産登記法の施行されているころになされていることに注目しなければならない。即ち、本件各土地を含む白川村平瀬地区内の土地がもともと部落有のものであり、各住民が夫々入会う形態のものであったとしても、前述のとおり明治二二年の町村制施行によりこれが村有地とされるに従い、次第に入会地の地盤が近代所有権制度の確立の方向に分解整理されていく過程にあったと考えられるから、右の決議や他物権の設定もこうした動きの中でとらえられるのであって、大正一三年の売渡処分はこうして確立された近代的所有権を前提として右白川村の所有とされていた土地を平瀬地区の区民に払い下げ、これを私有地とする処分であったと看ることができる。
このような過程の中で看ると、既に右当時白川村から個人名で払い下げを受け、その者の単独所有地となりその旨の登記をもそのころから既に経由しているものがあることが証人梨谷清治の証言から窺い知れるのであるが、そのような登記済の土地はとも角、そうでない土地、既ち白川村名義の土地については同村の所有権の他にこれと相容れない私人間で所有権を認め合うといった旧来の慣行に基いた単独所有地とか共有地と目すべき土地はこれを認めるべき筋合ではない。
若し、右慣行が存在するとしても、右売渡処分がなされるまでの平瀬地区住民の利用形態は公有地入会で一部落持入会であったということができ、夫々の住民の持つ利用権はその慣行に従い団体利用形態の他大部分はいわば個人分割利用形態を採っていたものであって、これが右売渡処分によりその地盤が私有地入会となったものと考えられるのであり、単純に単独所有地であるとか、共有地とか目すべきものではないのである。
(二) 旧慣廃止の件
(1)(イ) 《証拠省略》によると、特売地の個別的な明細は明らかでないが、大正一三年三月一八日白川村議会に対し、「特売地は現在使用収益の旧慣を有するものに売渡す」とあり「使用収益の旧慣はこの整理処分と同時に総てこれを廃止する」とある議案の提出がなされていることが認められる。
(ロ) 他方、《証拠省略》によると、これより先の大正一三年二月「一、互いに他人の使用収益地は分与の申出をしない、二、個人使用収益地を分筆せず、相互間の使用地以外に権利を主張せず、三、特売地中共同地は個人使用地に不同があるから其の不足分は肥沃の場所を以て補充し、不足分は平均に分割する、四、特売地の分割は台帳反別に依り按分にする」旨の記載のある森下太之右エ門、坂本松之助、坂次弥平、山越伊之助、高島秀孝、梨谷兼助、小坂つ、森下菊次郎連名の白川村宛と思われる誓約書が作成され、これが白川村役場に保管されていることが認められる。
(2) 右(イ)がそのまま議決されたものであるかどうか明らかでないが、これには従来の慣行は廃止されるが前記第一項一(二)(三)等の住民の従来の土地の現実の使用収益状況を尊重しつつこれに白川村有地を売渡すことにより近代所有権を確立させようとの国ないし自治体の意向が汲みとれるのであるが、他方住民側としては旧来の慣行をそのまま存続させようとの意図が右(ロ)の誓約書から読みとれ一見矛盾するように見える。
然し、近代所有権法及び債権法の理論によれば、売渡とは所有権を移転する一時的限りの移転的行為で完了するものであり、売主としては対抗力のある制限物権を除いては瑕疵のない自由な所有権を移転させるものであり、買主としてもこれを受ける権利があると観念されるから、当然第一項一(二)(三)のような制限的権利については一旦これを廃止せざるを得ないが、他方これを共同で買受けた者は従前の使用状況に鑑み、従前の使用収益方法を踏襲するかどうかを新規に決めること自体はその内部では自由であり、右(ロ)にもそのようなことは読みとれるのである。
けれども、右誓約書には売渡を受けたとされる者以外の小坂つ、坂次弥平等を含み、且つ連署の形で白川村宛に出されているものであり契約の形式を採ってはいない。そのような誓約は売主に出すべきものとして何らの効力もない。それは売渡を為す際の一応の参考資料となるにすぎない。
(3) ところで、右議案を検討するも、これに単独所有地と共有地の区別を認めることはできない。同議案書に「旧来の慣行に依り使用収益する者」とあるが、これは前記(一)の経緯から見れば白川村としては永小作権ないし地上権なるものを持つとされる者であり住民側としては旧来よりの使用収益機能を持つ者であるにすぎないものであり、これを尊重してこれらの権利を有する者に売渡し所有権を取得させるという意味であり、これらの者に個別に売渡したという証拠があれば格別、本件各土地が共同で売渡されたものである以上、これら買主は平等の立場に立つ筈であり、これを共有のままにするか、分けて単独所有にするか将た又総有にするかは買受後の内部処理の問題であるといわなければならない。そこで、右誓約書を看るに、これが買受人相互において仮りに約束されたとしても、文理上使用収益地とあり単独所有地という文字は使用されておらず、その一、二項は却って分与、即ち分割をしない旨の約束とも考えられ、且つ従来どおりの方法で使用収益するという使用区分、及びその方法についての約定であると考えられ、これに不公平があるならば同三項によってその使用区分の平衡化を図ると解することはできるが、尚それ以上に共同買受地そのものについてその一部分を単独所有地にし、他を共有地にする等の分割の約定があったと看ることはできない。
(4) ところで、右(1)(イ)(ロ)の議案及び誓約書が右(2)で述べたように自治体の意向と旧慣を存続させようとする住民側の意図を合理的に解釈すると、つぎのとおりとなる。
即ち、前記第一項一(三)(1)(2)のとおり大正九年白川村との間で永小作権ないし地上権設定契約が一旦締約されたとしても、住民側の使用状況はこれに頓着なく、同項一(一)のとおりの慣行で行われ、且つその売渡処分後も右慣行に従う意図であったと思われる。そこで、右(イ)の議案のうち「使用収益の旧慣を有する者に売渡す」場合の旧慣とは右の現実の使用状況を指すものということができ、「旧慣を廃止する」場合の旧慣とは白川村の所有でなくなる訳であるから他物権を存続させる必要はなく、従って右の永小作権ないし地上権を指すものと考えることができる。
そのように解すると、右(ロ)の誓約書は住民側同志の誓約書と看られるから、住民側としては当然右現実の使用状況が念頭にあったものと考えられ、これを右(3)のように内部処理の問題を解決したものと推認することができる。
そうだとすると、買受地全体についての権利ないし持分如何についてはこれを定めたと看ることはできず却って分筆を禁じているところから、大正一三年の売渡処分によって買受けた者の権利は、買受土地全部につき買受人の総有的な形態のもとに、共同利用地を残すものの各権利者毎に一定の利用区域を劃し、各人は自分に割り当てられたところしか利用できないが、その範囲内では排他的独占的利用権を行使しうるという所謂個人分割利用形態の入会権であると看ることができる。
前記近代的所有権制度が導入される過程の中でも慣習に基いて成立している入会権の存在も認めざるを得ないところから民法第二六三条及び第二九四条にその旨の規定を設けているのであるから、その地盤の所有関係の変遷に拘らず、その利用形態につき入会権と理解することは前述した物権法定主義にも悖るところはない筈である。右売渡処分によって、旧来の慣習が直ちに消滅したと看ることはできない。
然し、右総有的関係も後述のとおり次第に共有的関係に変遷して行くものと考えられる。
(三) 森下家は二家で一家分の売渡処分を受けたか。
右(二)(ロ)の誓約書中に森下菊次郎、森下太之右エ門の両名を含み、又坂次一芳、小坂久助両名の連署がないけれども坂次弥平は坂次一芳の、小坂つは小坂久助の身内の者と考えて推論すれば、結局本件売渡処分は当時平瀬地区で一戸を構えた者、即ち、森下太之右エ門、坂本松之助、坂次一芳、山越伊之助、高島秀孝、梨谷兼助、小坂久助、森下菊次郎の八名に対して共同でなされたものと考えることはできる。尤も、森下太之右エ門は分家をし、森下菊次郎が却って森下太郎右エ門の家督を相続したものであること本項一(二)のとおりであることから、森下太之右エ門及び森下菊次郎はいずれも一戸を構えるものであり、売渡された本件各土地につき共同買受人の間で持分割合についての新規な合意がなされたという証拠がない以上、民法第二五〇条に従いその割合は平等と推定するか、前述のとおり買受人の総有と看る他はない。
いずれにせよ、森下家は二家で一家分の売渡を受けたとする根拠はない。
(四) 水谷境なるもののもつ意味
右(一)のように看てくると、右差入証書中、水谷境を基準として所有地を分つというのは文字どおり考えられない。けだし、右平瀬地区の土地の所有者が白川村であるとするならば、これと両立しない所有権なるものを森下太之右エ門ないし森下菊次郎の両名に認めることは民法第一七五条に悖ることになるし、本来右両名が所有権の一形態とされる共有者であったとするならば、その共有物の分割につき水谷境を基準とすることは右両名のみの話し合いで自由に取り決めできる筈であり(それが近代的所有権の機能の一である)、何も所有権ないし共有権と係り合いのない平瀬地区住民の決議とか合意とかは要らない筈である。これを合理的に解するならば、当時尚旧来の慣行にとらわれ入会権を持つ平瀬地区住民が従来の使用収益地を右森下両名の紛争を契機に夫々水谷境を基準として分ちなさいという要望ないし勧告を右両名に差出し、この両名がこれを了承したという個々の入会う権利について分割的に利用することを認め合ったものにすぎず、入会権の主体としては右(三)で看るとおり売渡処分により買受人の総有と看られるから本件各土地についての森下菊次郎の権利を全く否定することはできない。
(五) 被告梨谷清治も、白川村名義になっていたとしても単独で開墾して単独で使用収益してきたところは所有権がつくと思う、大正一三年に土地の譲渡を受けたが、共同で受けたからすぐ個人のものにはならなかった、しかし特売を受ける前から個人の使っていたものは個人の所有地であり、右大正一三年以後、個人の使用収益部分は変り、牛を飼うのに草を植える牧草用の土地や、植林の土地は増えてきている、他の七家も増えてきている、と供述(第一回)している。
しかし、右の供述中、共同で買受けた土地の一部が何故に即単独所有地となるのか脈絡がないし、従前個人使用していたものが単独所有権となるというのがその理由であればそれは余りに短絡であり、本件売渡処分後に買受人八家の者で改めて分割の合意がなされていない以上、それは措信できないところである。このことは共同で買受けた土地がすぐ個人のものとはならなかったと、右被告本人も自認しているとおりである。前記誓約書丈ではこれを認めるに足りないこと前述のとおりである。
尚、被告高島秀孝は、大正一三年ごろは燃料や桑の木を植えて養蚕をしたり、植林、焼き畑をしたりすることによって個人使用地となる、但し薪を採る丈では足りない、と供述し、原告も、弓ヶ洞地域の土地については元は萱場で今は杉の植林である、と供述し、被告森下玉造も、大正一三年以前は各自が共有地内においてお互いに使用収益し、採草や、桑園、植林というものを各自でやっていた、と供述している。
これよりすれば、殊に右被告梨谷清治の大正一三年以後も個人の使用収益部分は増えてきた旨の供述(第一回)は、各個人使用地が本来個人使用形態の入会権であったことが窺えるし、又本件売渡処分後もしばらくは旧来の慣行が変りなく行われていたことを示すものと看られ、後記三(一)(1)の協議会において本件売渡処分がなされた土地につきその持分が、その(2)において買受人が問題となっているところであり、その各個人使用地については問題となっていないところから、右売渡処分によって売渡された土地全部について、右(一)のような形態の私有地入会権が成立したものと看られるのである。
従って、白川村が大正一三年までに共有地を単独開墾して使用収益していたところはその人の単独所有権を認めるが、それ以後においては共有地内における単独所有権は認められない旨の《証拠省略》はにわかに措信することはできない。又、本件売渡処分を受けた土地についてはもともと単独所有地と共有地があり、その後右売渡処分により形式的に払下げを受けたが、買受人八家において右区分を解消したものはなく、単独所有地は単独所有地、共有地は共有地として特売を受けた旨の被告高島外成の供述は前記第一項の売渡処分以前の各土地の使用状況、並びに本項一及び二(一)ないし(四)の本件売渡処分の性質に鑑みるとにわかに措信することができない。
三(一) 尚、《証拠省略》によると、
(1) 昭和九年三月一九日白川村において、森下太之右エ門、森下喜代松、小坂久助、梨谷清治ら出席の上、平瀬地区特売土地に関し、大正九年二月二四日付で森下太之右エ門、森下菊次郎、梨谷兼助が連署した文書につき疑義がもたれ協議会が開かれ、右土地に関し、白川村長の発案により森下喜代松を〇・八、森下太之右エ門を〇・七とし、その余を一の持分割合とする協議が行われていること、
(2) 昭和九年三月二八日白川村議会において、(イ)大正九年二月二四日同村議会で平瀬地区山林地上権設定に際し、森下太之右エ門とあるを森下太郎右エ門の家督相続人である森下菊次郎と訂正し、向後も森下菊次郎に特売すべきところ、(ロ)大正一三年旧慣廃止に当り更に森下太之右エ門も加え八戸として特売したのは大正九年の村会決議に悖るが、(ハ)現在直ちに森下太之右エ門に対する処分を取消すことは平和維持上止むなく、大正一三年の決議に基き、所謂八戸として特売土地を処理する旨の決議がなされていること、
が各認められる。
(二) このように当時の白川村の取扱いは可成り杜撰なものであった。もともと右(一)(2)(ロ)によっても大正一三年の本件各土地の売渡処分が森下菊次郎、森下太之右エ門を共に加えた八名の者になされたものであることが窺い知れるが、そもそもこれら八名の者に共同所有権が移転し既に白川村の所有でなくなった後に、白川村が再び関与するのはおかしい。この議決は大正一三年の既に処分済となっている特売処分につきあいまいな箇所を明確に確認しようとしたというにとどまる。
もともと、右売渡処分の性質は本項二(二)(4)のとおりであるが、当時買受人の間では買受土地が総有になるのか、共有になるのか、又その持分如何については明確に認識しておらなかったと看られ、かくて右(一)(1)の協議会が白川村の主催で開かれたものと推定できるが、これは正式な村議会と看ることはできず、又一旦売渡処分後に白川村が関与したり、大正一三年以前の問題をむし返しているのもおかしく、これを敢えて合理的に解釈するならば右(一)(1)の案は白川村長が本件各土地を共有地とみてその持分割合のあっせんをしたに止まり、その後は右の案を買受人八名の者全てが了承し合ったことになれば、昭和九年ごろ以後はそのとおりの持分割合に変更されたものと看るべきこととなる。然し、右の案は高島秀孝の反対により実現されなかったものであることが、被告森下玉造の供述によって窺い知ることができる。
尤も、そのころの買受人の間で買受土地の持分についての関心が芝生えていたことはこれを読みとることができる。
第三昭和一七年の調停について
一 《証拠省略》によれば、
(一) 昭和一七年被告森下玉造が原告となり、本件売渡処分をされた土地の内岐阜県大野郡白川村大字平瀬字経塚五一四番の一山林一八町歩(以下、本件調停土地という)につき、被告梨谷清治、及び小坂久助、山越伊之助、高島秀孝を相手として、これらの者が右被告森下玉造を除外し昭和一五年五月右土地を東邦電力株式会社へ売渡しその代金を受領したが、その分配金を求める訴訟を高山区裁判所に提起し、
(二) その結果、同年九月二〇日同区裁判所において、森下喜代松、坂次一芳、及び坂本松之助を利害関係人として関与させた上、「(1)平瀬区内の共有財産の持分割合を、被告梨谷清治、小坂久助、山越伊之助、高島秀孝は各九割五分宛、坂次一芳、坂本松之助は各九割宛、被告森下玉造、森下喜代松は各七割宛と定める。(2)右土地売却代金二、一〇〇円については、被告森下玉造を除く七名の者が分配した各金三〇〇円の内、被告梨谷清治、小坂久助、山越伊之助、高島秀孝は各金一五円宛、坂次一芳、坂本松之助は各金三〇円宛、森下喜代松は金九〇円を被告森下玉造に贈与する」等の内容のある調停が成立したこと、
が各認められる。
これによると、持分割合は被告梨谷清治、小坂久助、山越伊之助、高島秀孝は夫々七〇〇分の九五宛、坂次一芳、坂本松之助は夫々七〇〇分の九〇宛、被告森下玉造、森下喜代松は夫々七〇〇分の七〇宛となる。
二(一) 右調停においては被告らは従前の各個人所有地は従前のままとし、従って森下家は水谷境により両家その所有を分ち、共有地の分についての持分割合のみ調停したものであると反論する。
前記第二項二(一)ないし(四)で看たとおり本件売渡処分によって売渡された土地については私有地入会となり平瀬地区住民である八名の者が総有し、その利用形態については一部の共同利用地を残し個人分割利用形態を採っていたものであるからには、被告らがいう個人所有地とは他ならぬ右個々の入会権者が入会う利用権能を謂うのであって、入会権自体の管理ないし処分権能は右八名の者に総有ないし共有的に帰属するものというべきである。従って、右一部の共同利用地というも右入会権の利用権能をいうにすぎず、右売渡処分により買受土地自体を改めて分割するとかしない限り入会権自体の管理ないし処分権能には森下両家もこれに参与しうるものであるといわなければならない。後記第四項二(一)(2)及び(二)(2)の「万雑(まんぞう)」という組織の存在はこのことを示すものといってよい。
もとより右個人分割利用形態については、その利用する土地についての個々の入会権者の権利意識は強いものと考えられるが、入会権の存在を認める以上、このことを以て単純に右利用土地につき通常の所有権が成立することにはならない。
ところで、右調停は入会土地の一部を一部の者が他に売却したことが発端であるか、売却というのは将に入会地の処分権限に基くものというべくその利用権能ではないから、本来は買受けた八名の者全ての合意によって為されるべきところである。従って、右区裁判所が利害関係人として残余の者を関与させたことは意義がある訳であるが、右調停において注目すべきは本件調停土地が売却されたことを是認しこれを前提としてその代金を分配している事である。そもそも入会権においては入会権者の入会う権利、即ち利用形態を常態とし地盤土地を他に売却することは余り念頭に置かれない筈であるが、右調停においてはこれを売却したことによるその管理処分権能が問題となったというべく、従って右調停条項はこの権能に参与しうる割合、即ち持分を定めたものと理解される。従って、本件売渡処分を受けた土地全てにつき森下両家を含めて買受人は八名であること前述のとおりであり、全てこれを関与させたものであるから、右調停条項に「共有財産」とあるは右全ての土地を意味すると理解すべく、個人所有地ないし個人利用地を除外する根拠は見当らない。被告らのいう共有地、個人所有地なるものは前述したとおり個々の入会権者が入会う利用権能であり、通常の所有権ではないというべきである。
(二)(1) 被告梨谷清治は、右調停で成立した持分割合については、被告梨谷清治、小坂久助、山越伊之助、高島秀孝が各持分から五分宛を、坂次一芳、坂本松之助が各持分から一割宛を森下家へやり、森下家の従前の一〇とそれらの四を加え、それを森下喜代松と被告森下玉造の二つに分けるということである、と供述(第一回)する。
これよりすれば、右調停前の持分割合については森下家を一家として七家分平等であることを前提としていることが理解される。従って、前記三(一)の協議会による持分割合がその前提となった訳ではなく、さりとて右の前提は本件売渡処分が八家につき為され、その買受土地については個々の権利者の利用権能が入会う権能であって入会権の管理処分権限は総有的な関係であるとする前記一(一)ないし(四)の見地からは額面どおりには受けとれず、右一(二)及び三(二)に看るとおり次第に共有的関係に変遷し、その持分についても関心が芽生えていたことから、買受人である八家の者が旧慣に従い使用していた入会権限についての現実の割合を念頭におき、これを仮りに前提として入会権の管理処分権限についての関与の割合を定めたものと看ることができる。
かくて、右調停の成立によってこの入会権は他に売却したことを是認したことを併せ考えると一歩解体の途を進めたというべく、買受土地全部についての管理処分権能につき八名の者の持分が明確化されたものということができる。
(2) 尚、右(一)の点につき興味を示すのは被告高島外成の供述である。即ち、同被告は、前記調停条項第一項の「共有財産」には単独所有地は含んでいない、と供述しながら、他方では九割五分、九割、七割の割合の中には計算上は所謂その単独所有地を入れる、と矛盾して供述しているのであって、このことは本件売渡処分を受けた土地全部を含めての持分割合を考えていることになる。従って又、このことは右売渡処分を受けた土地全部が八家の者であり、この者につき右土地全部に私有地入会権が成立し、その全部の管理処分権能を考えなければ成立しえないものであり、若し単独所有地が存在し、そこに原告側に何らの権能もなければそもそも成り立ちえない考え方であるといわなければならない。
第四その他の問題
一 再び前掲誓約書について検討する。
前記第二項二(二)(1)(ロ)で認定したとおり、右誓約書第三項には「特売地中共同地は個人使用地に不同があるから其の不足分は肥沃の場所を以て補充し、不足分は平均に分割する」との記載があり、その第四項には「特売地の分割は台帳反別に依り按分する」との記載がある。
前記第二項二(二)(3)(4)のとおり、本件売渡処分により本件各土地につき買受人の総有的な形態のもとに一部個人分割利用形態の入会権が成立したと看るならば、右誓約書第三項第四項からは右個人分割利用土地についての不平等を是正しようとする意図は当然の事ながら読みとることはできる。
然し、右台帳反別に依り按分されるという基準もあいまいであるし、右肥沃の場所というも主観的であり、且つ恣意的であり、何を以て肥沃の場所を指すのか、どれ程の場所を分与すれば平等になるのかという客観的な判定機関も見当らない。これを平瀬地区の住民が昔してきたように自ら開墾し使用を始めた箇所を単独使用地として認め合うというのならばそれこそ入会権そのものであるし、各人が勝手にそのようにしたところで客観的に平等となる按分は出来る筈はない。そのような抽象的且つあいまいな基準ではその後の按分は行われ難いであろうし、現に行われて来た例はこれを見出すことはできない。
右のように誓約書第三項第四項を以てしても最終的にその取分が所謂七家平等となり得る筈はないし、尚その他右各条項を以てしても森下家が二家で一家分となるような取り決めがあったことを読みとることは不可能である。
二(一) 《証拠省略》によると、
(1) 被告高島外成は本件売渡処分が為された土地につき、昭和四三年ころから会計を担当する者であるが、同被告はこれを七家共有地分、八家共有地分、単独所有地分と夫々区分けして事務処理をしていること、右七家共有地及び単独所有地とする根拠を本件売渡処分当時より夫々森下家二家を一家分とする七家が共同使用していた土地、並びに当時から単独使用していた土地をいうとし、右八家共有地とは本件調停でそのように成立した土地を指称するものとしていること、然し、税負担等については、単独所有地を含めて八家全部の持分割合を考慮して負担ないし分配させていること、但し、昭和五一年以降七家共有名義で登記された土地の分については右七家の税負担としていること、
(2) 更に、八家共有地と称する土地の一部を小川光雄に売却したり、被告石田都代志外数名の者に賃貸したり、七家共有地と称する土地の一部を学校敷地に売却したり、派出所用敷地や国鉄用敷地として賃貸したり、和田八重子らに賃貸したりして、これら土地の賃料ないし売却代金を記帳する為平瀬土地台帳という帳簿を作り、これを毎年末に八家の構成で開催される「万雑(まんぞう)」と称する集会において収支報告しこれを分配していること、右賃貸や売却等は少くとも昭和三六年ごろより行われていること、
が各認められる。
(二)(1) 然し、まず単独所有地、七家共有地、八家共有地とする根拠はすでに看てきたとおり理由がないものであるといわなければならない。
即ち、大正一三年ごろの本件売渡処分の性質自体が前記第三項一ないし三認定のとおり村有地、即ち公有地を私有地とするに止まり、或る部分は七家共有のものとし又或る部分は夫々個別に売渡されたものであるという証拠がなく、個人使用地とするか共同使用地とするかの問題は旧来の慣行から抜け出せないでいる平瀬地区住民がその間で右旧来の慣行に従うものとした内部処理であったものにすぎないものであるからには、せいぜいそれは旧来のままの個々の住民の入会権能を定めたものにすぎないからであり、又本件調停についても前記第三項で看るとおりその条項中の「共有財産」につきそれが特定の土地を指称するものと限定されてはおらず、従ってこれは本件売渡処分を受けた全ての土地をいうと理解されるものであるからである。
(2) そして、右共同使用地、単独使用地の区分があるに拘らず、税負担や、土地の賃料、土地売却代金の分配等については八家全部が毎年末に集まり収支決算を行う「万雑」と称する集会が存在していることは前記第三項二で述べた入会権自体の管理処分権能を示すものといえる。
(3) 然し又、右(一)(2)の第三者に土地の一部を賃貸したり、これを売却したりすることは本来入会権の予定しなかった利用ないし処分形態といってよい。けだし、入会権は土地の総有ないし共有のもとに、個々の入会権者がその資格に基いて入会う権能を持つが、それは開墾して耕作するとか、採草放牧地としたり、桑園や植林をするなどいわば自ら使用収益する権能であるが、第三者に入会地を賃貸したり売却したりする権能はこれを超えて商品交換経済制度の発達とともに認められた近代所有権としての内容の一部を為すものであるからである。
このことは、当初平瀬地区住民の採った分割利用形態では夫々が独占的優先の利用権能を持つのであるから時代が降るにつれて共同利用及び管理の連帯観念が次第にうすれて行くことも当然というべく、前記第三項一(二)の本件調停成立時において各個人の持分が明確に意識されたことはその反映である。そのころから、次第に入会権者の間に所有者意識が(共同使用地については総有ではなく共有者意識が)、芽生えていたものと看られるが、右の傾向は少くとも昭和三六年ごろに至って明確になってきたものと考えられる。
三 尚、被告らは大正一三年の売渡処分が為された土地のうち単独所有地があるものとして原告の先代である森下喜代松も取扱った事例として乙第四八号証を掲げる。
然し、これまで本件各土地をめぐる被告ら関係者の間では大正一三年に売渡処分を受けて以来依然として登記名義は白川村のままに残し、実際は自分達で夫々個別に分割したりして使用収益して来た状態であること、右は分割利用形態を採る私有地入会権であるとみられることはこれまでの認定事実から明らかであって、従ってこれらの人々は登記の面は一向に無頓着であったと考えられ、このことは《証拠省略》によっても窺えるのである。
ところで、前掲乙第四八号証は右森下喜代松が特売地未登記分の土地(岐阜県大野郡白川村大字平瀬字織ヶ瀬四九五番土地外二筆)を岐阜県へ売渡すに際し、白川村より直接同県へ移転登記をするように願い出た昭和四九年一〇月一一日付書面であるが、これは将にこれらの土地が右分割利用形態としての私有地入会権であると思われるのに、時代の変遷によって人々はこれを忘れ入会権者個人の権利意識が優先し連帯観念が次第にうすれて行ったころの昭和四九年度(前記第四項二(二)(3)参照)のことを併せ考えると、右森下喜代松において事実上単独でこれを処分し、唯登記面が未だ白川村の所有名義になっていることから直接これを岐阜県へ移転するよう形式を整える為のもの丈の書面といえるのであり、本来入会権であれば他の権利者の総意ないしは同意を得なければならない筈であって、これは又右時代のすう勢からすればそうはしないであろうことは当然予測される成り行きであり、即ち、右森下喜代松の処分行為及び登記の移転は事実上為されたというに止まる。
従って、右被告らの反論を以てしても本件各土地につき入会権の存在を否定する根拠となり得ない。
四 尚、本件(二四)土地は被告坂次英治の先代からの所有地であり、本件(二七)土地は被告梨谷忠正の先代からの所有地であって、いずれも本件売渡処分によって売渡された土地のうちには含まれていない、と右被告らは反論する。
(一) 成程《証拠省略》によると、岐阜県大野郡白川村大字平瀬字下川原旧地番三〇七番一雑種地二四六平方米には、(1)明治二九年三月二二日家督相続を原因として坂次太兵衛宛に明治二九年四月四日付で登記が為され、ついで大正一四年七月一二日家督相続を原因として坂次一芳宛に昭和一六年六月三〇日付で登記が為され、更に昭和四二年四月二三日相続を原因として相被告坂次政芳に昭和四二年六月五日付で登記が為されていること、(2)更に、昭和四九年八月一〇日贈与を原因として白川村に昭和五〇年二月二〇日付で移転登記が為されていることが窺える。
然し、《証拠省略》によると、その後右旧地番の土地は(甲)欄一(一)及び(二)、二(一)ないし(三)のとおり右同所三〇三番一土地に合併されて右登記簿は閉鎖され、その後同欄三(一)ないし(一三)などと分筆されてのち、右同所三〇三番一土地から分筆された本件(二四)土地は昭和五一年四月一〇日贈与を原因として同年四月一三日付で被告坂次英治宛所有権移転登記が為されていることが窺えるところ、更に《証拠省略》に鑑みると、本件(二四)土地は右同所旧地番三〇七番一土地の位置付近に位するものの、その形状、位置、面積は一致せず、右同所三〇三番一土地が下川原地区の川と字大洞地区との間にはさまれた一帯の土地と考えられ、これらの土地が前記第二ないし第三項で考察してきたように大正一三年ころ一帯として本件売渡処分の対象となったことを併せ考えると、右のとおり右同所旧地番三〇七番一土地が合併されたことによりその独立性を失い他の右売渡処分を受けたとみられる土地部分に付合されたものとみられないではない。
然し、右同所付近の土地一帯の合筆分筆の経緯及びその性質が前掲(甲)欄第一項第二項で考察したような特殊の性質のものであるとすると、これは単に区画整理が行われたものとして本件(二四)土地は旧三〇七番一雑種地と同一性あるものとして被告坂次英治において使用収益しているものと考えられる。
そうすると、右(二四)土地はもともと大正一三年の売渡処分の対象となっていない土地であったから、これにつき原告の持分権の主張は理由がないこととなる。
(二) つぎに、成程《証拠省略》によると、右同所旧地番三〇三番田一七八平方米には、(1)明治三年三月一二日付で梨谷次兵衛宛に登記が為され、更に明治三七年一〇月二日家督相続梨谷兼助、昭和一五年一月二三日家督相続を各原因として昭和四九年八月二九日相被告梨谷清治宛に登記が為されていること、(2)更に昭和四九年八月一〇日贈与を原因として白川村に昭和五〇年二月二〇日付で移転登記が為されていることが窺える。
然し、《証拠省略》によると、その後右旧地番の土地は(甲)欄一(一)及び(二)、二(一)ないし(三)のとおり右同所三〇三番一土地に合併され、その後同欄三(一)ないし(一三)などと分筆されたのち、右同所三〇三番一土地から分筆された本件(二七)土地は昭和五一年四月一〇日贈与を原因として同年同月二四日付で被告梨谷忠正宛移転登記が為されていることが窺えるところ、更に《証拠省略》に鑑みると、本件(二七)土地は右同所旧地番三〇三番土地の位置付近に位するものの、その形状、位置、面積は一致せず、右同所三〇三番一土地が下川原地区の川と字大洞地区との間にはさまれた一帯の土地と考えられ、右(一)で考察したように他の売渡処分を受けたとみられる土地部分に付合されるものとみられないではない。
然し、右同所付近の土地一帯の合筆分筆の経緯及びその性質が前掲(甲)欄第一項第二項で考察したような特殊の性質のものであるとすると、これは単に区画整理が行われたものとして本件(二七)土地は旧三〇三番田と同一性質をもつものとして被告梨谷忠正において使用収益しているものと考えられる。
そうすると、右(二七)土地はもともと大正一三年の売渡処分の対象となっていない土地であったから、これにつき原告の持分権の主張は理由がないこととなる。
五 尚又、被告らは大正一三年当時既に本件各土地については原告の先代と被告らないしその先代との間に互いに分与を申出ないこと、ないしは権利主張をしない旨の合意が成立した、と抗弁する。
然し、これは前記第二項二(二)(1)ないし(4)で検討したところから明らかなように、そのような約定が前記誓約書の中にあったとしても、共同使用地については平等に按分する旨の条項も存在することから看てもその効力は共同使用地には及ばず、せいぜい個々の入会権者が入会う既得権、即ちそれまで単独使用地として認められてきた土地についてはこれを尊重して新規に分割し直すことを禁ずるというにすぎず、そもそも入会権全体の管理機能ともいうべき総有地ないし共有地としての本件各土地の持分割合如何については効力を及ぼすものとはいい難い。
よって、被告らの右主張は理由がない。
第五結論
一 以上、第一項から第四項に亘って考察してきたとおり、本件各土地については大正一三年ごろの本件売渡処分により一部につき団体利用形態、一部につき個人分割利用形態を採る私有地入会権の成立が認められるが、入会権者の間の意識が右第四項二(二)(3)で考えたように時代が降るにつれて次第に所有者ないし共有者としての意識に変化してきたものと看られる。
然し、このことから本件売渡処分そのものの性質が変るものではなく、即ち、これまでの単独使用地が単独所有地になるとか、共同利用地が共同所有地になるとかいったいわれは所有権ないし共有権の恒久的性質から当然には考えられず、右売渡処分の性質が平瀬地区内の公有地を全体として所謂八家の者に売渡したものであれば、売却された土地は当初これら八家の者に総有的に帰属したものと看るべく、その全体としての総有が本件調停成立時に明確にされた各人の持分割合によって共有という性質に時代の変遷とともに変化したものというべく、それがさらに時代を降るに従って明確化されたもの、即ち本件売渡処分の対象となった土地は今日本件各土地を含めて全て共有物であるといわざるを得ない。
二 以上のとおりであるとすると、本件各土地については本件調停の成立によって明確にされた持分割合、即ち原告の先代森下喜代松は七〇〇分の七〇宛の持分を持つことになる。
ところで、森下喜代松が昭和五一年一月二四日死亡したこと、及び原告が右森下喜代松の子であることは当事者間に争いがないところ、その余の子ら及び妻である森下たかが相続放棄をしたことは証人森下たかの証言によって認められるから、結局原告は右森下喜代松の持分七〇〇分の七〇宛を相続したことになる。
(丙)被告らの取得時効等についての考察
第一取得時効の要件としての自主占有
一 取得時効は所有の意思をもってする占有があることを要する。所有意思があるかどうかは占有者の内心の意思によって決せられるものではなく、事実上占有取得の根拠となった客観的事実によって決せられるところである。即ち、権原の性質上占有者に所有の意思がないもの(他主占有)とされる場合には、内心の意思如何にかかわりなく所有の意思はないものとし、占有者が所有の意思があることを占有をなさしめた者に対して表示するか、或いは新権原によって所有の意思が客観的に証明されない限り占有はその性質を変えない(民法第一八五条)。但し、権原の性質上他主占有と認められるのでない限り、占有は所有の意思をもってなされているものと法律上推定されるから、占有が他主占有であることを主張する者がその挙証責任を負担する(同法第一八六条第一項)。
ところで又、相続その他の包括承継においては単なる主体者の変動以外には権利関係の変動はないものとして取扱われるべきである。
二(一) 右第一項で検討したように取得時効の要件である自主占有は権原の性質によって客観的に定まるべきところ、大正一三年の売渡処分は前記(乙)欄第一項第二項第五項でみたように私有地入会権の性質を有するものであって、一部につき個人分割利用形態を採ったにすぎないものであるから完全な単独所有地ではなく、その権原の性質は他主占有というべきものである。
従って、占有開始時を右売渡処分時とするもの、即ち本件(一一)ないし(一四)土地、本件(一六)ないし(二二)土地、本件(二五)(二六)土地、本件(二八)ないし(三四)土地、並びに本件(二五)土地につき占有開始時を右売渡処分時とする主張部分についてはいずれも右取得時効の要件を欠く他主占有であるから、これら土地に関する被告らの取得時効の主張はいずれも理由がない。
(二)(1) 本件(一五)土地につき、昭和三六年ごろ被告上田加等がこれを買受けたこと、ないし昭和三三年ごろ白川村より相被告梨谷清治らが贈与を受けたことを認めるに足りる証拠はない。《証拠省略》を検討するも昭和五一年四月一三日被告上田加等が白川村より贈与を受けた旨の所有権移転登記があるのみであって、これ丈では取得時効期間の完成に充たない。
よって、右被告の取得時効に関する右主張は理由がない。
(2) 本件(二三)土地についても、昭和四三年七月三〇日訴外小川光雄がこれを買受けたこと、ないし同年一〇月一日同訴外人から被告野崎木乗がこれを買受けたことを認めるに足りる証拠はない。《証拠省略》を検討するも昭和五一年三月一日同被告が白川村から贈与を受けた旨の所有権移転登記があるのみであって、これ丈では取得時効期間の完成に充たない。
よって、右被告の取得時効に関する右主張は理由がない。
第二本件(一九)土地について
《証拠省略》によると、本件(一九)土地は昭和五六年八月一日被告坂本松蔵より坂本靖に贈与を原因とする所有権移転登記が経由されていることが認められる。
従って、現在被告坂本松蔵は右土地の登記名義人ではないから、原告に対して右土地についてのその持分の移転登記手続をする義務はないことになる。
(丁)結論
第一 被告らの持分移転登記手続義務
一 前掲乙欄で考察したとおりであるとすると、結局本件各土地についての原告の持分は、同欄第五項二のとおり七〇〇分の七〇宛となる。
又、本件(一)ないし(一〇)土地については被告小坂昭久、同高島外成、同梨谷清治、同山越初五郎は夫々持分七〇〇分の九五宛、被告森下玉造は持分七〇〇分の七〇、被告坂次政芳は持分七〇〇分の九〇となる。
二 原告の請求原因第三項二(一)及び(二)(1)ないし(4)、(5)ないし(15)のとおりの被告らが夫々の土地につき登記名義を有していることは当事者間に争いがない。
三(一) 従って、本件(一)ないし(一〇)土地については、原告に対し、被告小坂昭久、同高島外成、同梨谷清治、同山越初五郎は夫々持分七〇〇分の五宛、被告森下玉造は持分七〇〇分の三〇、被告坂次政芳は持分七〇〇分の一〇の各移転登記手続をなすべき義務がある。
よって、原告の右被告らに対する右各土地についての持分移転登記手続請求はこれを認容する。
(二) 又、その余の土地については本件(一九)土地を除き、原告に対し、被告坂本松蔵を除く請求原因第三項二(二)の各被告らは夫々の土地につき、原告の持分一〇分の一(七〇〇分の七〇)宛を侵害したことになるから夫々その持分移転登記手続をなすべき義務がある。
よって、原告の右被告らに対する右各土地についての持分移転登記手続請求はこれを認容する。
第二 尚、被告坂次英治に対する本件(二四)土地について、被告梨谷忠正に対する本件(二七)土地についての原告の各持分移転登記手続請求は前掲(乙)欄第四項四(一)(二)で判断したとおりであり、又被告坂本松蔵に対する本件(一九)土地についての原告の持分移転登記手続請求は前掲(丙)欄第二項で判断したとおりであるから理由がなく、いずれもこれを棄却する。
第三 よって、訴訟費用につき民事訴訟法第九五条本文第九三条本文第八九条を適用の上、主文のとおり判決する。
(裁判官 宗哲朗)
<以下省略>